世界史レポート 紅茶の歴史

 

INDEX

 紅茶の起源

 オランダ東インド会社V.S.イギリス東インド会社

 香辛料から茶へ

 オランダと茶

 イギリス・茶の流行 〜王室が宣伝カンバン〜

 実はコーヒー大国だったイギリス

 それでも茶が広まったのはなぜか?

 ボストン・ティー・パーティー事件

 種まきから市場まで

 紅茶とアヘン(三角貿易)

 コレラと茶

 元・植民地の苦悩

 Storm in Tea-cup 考察

 参考文献

紅茶の起源

 日本茶・紅茶・中国茶という茶。この3つは、品質は違っていても同じ「カメリア・シネンシス」という学名のつばき科の茶の木がルーツとなっている。茶は育った環境によって風味が異なってくるが、茶の種類を大きく分けるのは、主に収穫後の発酵の度合いの違いである。発酵させないのが緑茶、半発酵させたのが中国茶、そして完全に発酵させたのが紅茶で、発酵させる事によって茶の渋みは強くなり色も濃くなる。因みに「紅茶」という名だが、茶葉にお湯をさすと紅褐色になるので、日本では紅茶と呼んでいる。一方、できあがった茶の色が緑色なので、緑茶と名づけられている。つまり、紅茶は液体の色、緑茶は茶葉の色、というわけである。英語では紅茶はできあがった茶葉の色が黒褐色をしているので、ブラック・ティーと呼び、緑茶はそのままグリーン・ティーと呼んでいる。

 さて、この味わいや飲み方も違うこれらの3つの茶だが、起源をたどっていくと中国の雲南省あたりの茶の木にたどりつくとされている。この中国発の茶は、中国から陸路でインドや中央アジア地方へ、海路で日本へ、と各地へつたえられた。中国の古い茶の歴史を記したものとしては、唐の時代・760年頃に陸羽が著した『茶経』がある。
 日本への茶の伝来は平安初期とされている。後、戦国時代・1500年代の日本で「茶の湯」として茶文化が形成された頃、ヨーロッパなど、世界では大航海時代を迎えていた。次々と海路が開かれ、西洋と東洋が出逢い、初めてヨーロッパに「茶」がもたらされたのである。

 紅茶といえば、イギリス、そして他のヨーロッパ諸国を思い出すが、初め中国からヨーロッパに輸入されたのは中国茶と緑茶だった。更にいうと、もともとヨーロッパにお茶を飲むという習慣は無かったのだ。そんな中、いつ「紅茶」になったのかというと、まず中国での発酵技術が進み紅茶が生産されるようになり、更にそれがヨーロッパ人――主にイギリス人――の味覚に合ったからだといわれる。
 紅茶より前、中国から輸入されていた茶は大きく2つに分けられる。緑茶と、「ボヘア茶」という低級な半発酵させた濃い中国茶であった。このボヘア茶は発酵度が高く、これが今の紅茶の原点だといわれている。17世紀から18世紀のイギリスにおいて、発酵させた茶は皆「ボヘア」と呼ばれていた。
 茶の人気が高まり、需要が増えるにつれ、高級な緑茶に比べいくらか安い低級なボヘア茶に人気が集まっていった。輸入される茶の割合は、18世紀初めは緑茶55%・紅茶45%であったのが、18世紀後半になると緑茶35%・紅茶65%となっていった。

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東インド会社

オランダ東インド会社V.S.イギリス東インド会社

 17世紀になると、オランダ・イギリス・フランスはそれぞれ東インド会社を設立した。東インドというのは、コロンブスがアメリカをインドと誤った事が原因でそこを西インドと呼ぶようになっていたので、それに対し本来のインドを東インドと呼ぶようになったのが名前の由来である。それぞれの東インド会社の目的は東洋との貿易であった。特に香辛料は貿易の中心であって、それをめぐる争いはすさまじいものだった。そして自然とイギリスとオランダはスパイスをめぐる競争関係から敵対関係にと陥っていった。それは香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島の領有権を巡る両国の争いとなった。モルッカ諸島の中心、アンボン島にはオランダ商人がいた。そこへイギリスの商人が割り込んできたのが原因で争いはどんどんエスカレートし、1623年にはオランダ側がアンボン島のイギリス人を虐殺するという「アンボン事件」を引き起こす事となった。

 アンボン事件の結果、イギリスはモルッカ諸島をはじめとするインドネシア諸島から手を引くはめになった。そしてイギリスはインドの開発に力を注ぎ、一方オランダはインドネシア諸島の独占を守った。この影響は後々東洋との貿易の中で様々な形となってあらわれる。茶の貿易が初めオランダに独占され、イギリスにはじめて公式に茶が伝わったのがオランダを経由してだった事もその一例である。

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香辛料から茶へ

 長い間金と同義語のように扱われてきた香辛料の栄華も、18世紀の終わり頃にはかげりを見せはじめていた。ヨーロッパ人がその味になじみ、多少飽きはじめていた事や、香辛料の独占者が要求する値段が上がりつづけていた事、それらが香辛料から得られる収入を減少させていた。東インド会社でさえ、香辛料に関しては先細りの前兆を見せていた。
 そこで必要となってくるのが新たな収入源である。その条件としては、まず「ヨーロッパで需要が増えてきているもので欲しがられているもの」である事、そして「東洋自体でも生産が増加しそうな東洋の特産物」である事、があった。これらの条件が見事に当てはまったのが、またも植物から得られる「茶」であったのだ。

 余談ではあるが、1660年までには、その200年前に香辛料が占めていたところまで茶はのぼりつめたという。

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オランダと茶

 前述したように、ヨーロッパにはもともと茶の風習は無く、ヨーロッパで最初に飲茶の習慣を広めたのは17世紀初頭のオランダであった。もっとも「知っている」だけならそれより以前にもいたはずであろう。当時、ヨーロッパ人たちは香料諸島にばかり目がいっていたが、中国や日本に興味を持ったポルトガル人の水夫や宣教師たちがいた。彼らは中国や日本の茶を知っていたかもしれない。

 オランダ船が中国に進出したのは1601年で、中国の商品がヨーロッパに持ち帰られるようになったのだが、中国の茶を最初にマカオで買いつたのは1610年である。これがヨーロッパに茶がもたらされた初めての公式の記録となっている。一方オランダ船が初めて日本に来たのは1600年で、徳川家康がその航海士ウィリアム=アダムズ(日本名:三浦安針)を江戸に招きもてなし、1609年にはオランダ東インド会社に貿易の許可を与えていた。ここにもアンボン事件の影響が出ているといえる。日本との貿易も、イギリスはオランダにその勢力を奪われてしまう事になった。1609年、オランダの商船隊が日本の平戸に来航し、翌1610年には平戸からバンダム経由で緑茶がヨーロッパに向けて輸出された。これらの中国茶・日本茶がヨーロッパにもたらされた最初の茶であるとされている。オランダ人たちは子の珍しい「茶」を本国に紹介したのだ。

 1637年1月2日付けで、オランダ東インド会社の17名の理事が東インド総督にあてた書簡に『茶が国民のうちのある者たちから愛用されはじめているから、我々としては各船ごとに中が紅茶と日本茶を数壷舶載することを期待する。』とでているが、1650年暮れの報告書によると、同年度に輸入されたお茶の総量は、中国茶22壷(約22ポンド)と日本茶5箱となっているので、あまりたいした量ではなかったらしい。ところが、1685年には2万ポンドを輸入する予定だと文書に記され、更に50年後の1734年には88万5千ポンドに増加していた。その頃までヨーロッパに運ばれた茶は緑茶だったが、1750年頃からは紅茶に転換されていく。

 多くの人々が茶を飲むようになると、この東洋の神秘的な飲物が人体に対して安全か否かという事が問題となってきた。ここで博物学者や医師の登場となる。様々な意見が飛び交ったが、結果からして彼らの意見はおおむね好意的であり、茶の薬効を賞賛する事となった。
 こうして17世紀初頭にオランダに始まったヨーロッパの飲茶の風習は、オランダからフランス・ドイツ、そしてイギリスへと伝えられた。その証拠に17世紀のイギリスでは茶は「tea」ではなく「cha」と綴られていた。しかし、茶がイギリス東インド会社を通して中国の広東から輸入されるようになると、広東語の「テー」から次第に「tea」へとなっていったのである。
 茶の呼び方は伝わったルートによって「チャ」「テ」「テー」「ティー」「チャイ」などと様々である。

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イギリス・茶の流行 〜王室が宣伝カンバン〜

 ヨーロッパに茶がもたらされた頃、茶は東洋の神秘的な飲み物であり、その薬効も期待され、薬品として薬局でとても高価な値段で取り扱われていた。
 その薬品がイギリスで「嗜好品」として受け入れられるようになったきっかけとなったのが、キャサリン(
1660年に王政復古を行なったチャールズ2世の妻として、ポルトガルからきた王妃)である。
 ポルトガルもオランダと同様に、中国・日本・アジアと交流を深く持っていたので、当時のポルトガルの王室にも飲茶(喫茶)の風習があった。もちろん、ポルトガル王室出身のキャサリンがその風習を持ち込まないはずがない。彼女は結婚の持参金のかわりに、インドのボンベイと砂糖、そして東洋からの喫茶の習慣を持ちこんだ。1644年にイギリス東インド会社の理事会が2ポンド2オンスの茶をチャールズ2世に献上したところ、大変喜ばれたという。国王がそれを王妃キャサリンに与えたので、彼女によって宮廷をとりまく貴族たちに喫茶の風習が広まったといわれている。一説によると、好色な国王に対するストレス解消に茶会を毎日のように開いていたらしい。又、「砂糖」を入れて飲むようになったのもキャサリンの影響であるといわれている。
 キャサリンの持ち込んだ、東洋の「喫茶」という習慣は、当時のヨーロッパ諸国の東洋に対する好奇心やあこがれ、東洋趣味(オリエンタリズム)と実にうまく重なり、イギリス王室で「上品」ともてはやされ、貴族の女性たちの間で瞬く間に流行となった。当時のヨーロッパにはまだ無かった東洋の美しい陶磁器でできた茶器などを用いて茶を飲むことは、何よりも上品で贅沢で優美な、貴族のお遊びだったのだ。

 そしてイギリス王室が支持し、上流階級にも広まっている習慣となると、今度は「上流気取り」の市民たちが喫茶を真似し始め.一般市民たちにも普及していく事となっていった。この『王室→貴族→一般市民』という流れは、イギリスではよく見られるパターン化された普及方法である。大衆は常に自分たちも「上流でありたい」と思うものなのだろう。

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実はコーヒー大国だったイギリス

 紅茶・コーヒー・チョコレート(ココア)はほぼ同時期の1650年代にオランダ東インド会社によって伝えられていた。

 キャサリンによって茶は貴族たちを中心に飲まれるようになっていったが、それ以前の1650年代には一足先にコーヒーがコーヒーハウスにてイギリス市民に広まっていた。17世紀半ば過ぎ、ロンドンに出現したコーヒーハウスは、人々の交流の場となり、その後約100年間程イギリスで大流行し、政治的にも重要な場として活躍していった。コーヒーハウスの最盛期は18世紀で、その数はかなり誇張されていると思われるが、ロンドンで3000軒を超したといわれている。このようなコーヒーハウスの存在とともに、17世紀頃からのイギリスは、実はヨーロッパ最大のコーヒー消費国であったのだ。その理由としては、当時まだオランダ商人を通して購入していた茶に比べ、コーヒーのほうが安価であった事が挙げられる。他にも、アルコールが蔓延していたイギリスに「二日酔いの特効薬」と宣伝されたコーヒーは魅力的であっただろう。おかげでコーヒーハウスで行なわれた議論も酒に酔った状態で行なわれることなく、人々は互いに明朗な状態で議論し、意見を交わす事ができたという。

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それでも茶が広まったのはなぜか?

 様々な革命を生み出していったコーヒーハウスだったが、自らの最後の革命がコーヒーから茶への転換だった。1720年代から1730年代の事である。17世紀終わりの茶の輸入量18万1545ポンドに対し、18世紀前半の茶の輸入量は4000万ポンドになっていた。
 この大異変の主な要因はいくつかある。
 まず、商業革命の時代、イギリス・オランダ・フランスは、人気のコーヒーをアラビア商人から買うより、自分たちの植民地などで栽培したほうが儲かるということに気付いた。

 そこでオランダはアラビアからコーヒーを持ち出し、ジャワやセイロンに移植してみた。そして1713年からジャヴァ・コーヒーの出荷を開始した。ジャヴァ・コーヒーはアラビアのモカ・コーヒーよりも安く、ヨーロッパ諸国はオランダからコーヒーを輸入する事になった。フランスも西インド諸島でオランダと同じようにコーヒー栽培を始めた。しかし、イギリスはこれに完全に出遅れ、イギリスによるジャマイカでのコーヒー栽培が本格化するのは19世紀からの事となってしまう。
 このようにイギリスはコーヒー生産地獲得合戦に敗れた事によって、結果的に茶の国にならざるを得なかった、という見方をする事もできる。

 他には、1721年イギリス東インド会社による茶の貿易体制が確立された事、1723年にウォルポールによる茶の輸入関税の20%引き下げが行われた事が起因していたと思われる。同時に、王室からいつものパターンで市民に普及するというパターンも大成功を収めていた。
 おかげで1730年代にはコーヒーと茶の勢力は逆転し、1788年には茶は1725年の約半分の価格になり、一気に国民的飲み物になっていった。

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ボストン・ティー・パーティー事件

 1770年代までに東インド会社は破産の気配を感じていた。そこでイギリスは茶に税をかけることにした。沈みそうな東インド会社を引き上げる資金源にするためである。税の対象はアメリカであった。アメリカへと新天地を求めて移住した人々だったけれども、彼らにとっても茶は重要な品物であったのだ。新しい土地、アメリカへ渡ってもイギリス人である事にこだわった彼らは本国からの製品を買っていた。イギリスにとってアメリカは国産の商品を売る重要な「市場」でもあったのだ。
 そして、フランスなどとの植民地戦争のため財政難となっていたイギリスは、このアメリカの茶の需要に目をつけた。本国では高価な東インド会社の茶より密輸された安価な茶の方が飲まれていたので「丁度良い」と大量の在庫の茶をアメリカに売りつけようとした。その為に1773年にティー・アクト(茶条例)も出した。しかし、この本国からの横暴に対し、アメリカ市民たちは怒り、インディアンに扮装してボストン港に停泊していた船に乗り込み、茶を海へと投げ捨てた。当時の様子は『海が茶の色になって魚まで茶の匂いがした』と冗談で言われるほどであったという。これが有名な「ボストン・ティー・パーティー事件」である。これがきっかけとなって各地で独立運動が高まり、三年後の1776年にアメリカはイギリスからの独立を果たした。

 アメリカ人は茶をボイコットする事で「イギリス人」から「アメリカ人」になったのだろう。そして紅茶のように薄いアメリカン・コーヒーを生みだしたのだ。

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種まきから市場まで

 茶はイギリスの国民的飲み物となっていき、飲茶の週間が多くの利益をもたらすという事がわかってきた。しかしそこには、中国からの輸入に頼るしかない茶をどうにかして自国で生産したいというジレンマがあった。オランダも同じような事を考えていた。中国の茶を自国の植民地ジャワで栽培したいという思いだった。

 そこでオランダは茶の鑑定士としてJ.I.L.L.ジャコブソンを1827年から中国に送った。しかしその実、ジャコブソンは密かに茶の作り方と栽培法を学ぶ事が目的であった。茶のプランテーションを作るジャワに茶の木と作業員を持ちこみたいという思惑であった。だが、これは非常に危険な事であった。なぜなら、中国はただでさえ貿易で近づいてくる外国人には警戒心を抱いていた上、茶を独占しようとする者に対しては敵対心を持っていたからである。しかし、オランダはこの作戦をまんまと成功させる事ができた。

 そしてイギリスもほぼ同時期に中国茶の移植を実行した。中国以外の極東の地でも、気候条件が近ければ大丈夫だろうと植民地を探し、見つけたのがアッサム高地とダージリンであった。更にアッサム高地には自生種の茶木が野生で生息する事がわかった。1830年代のアッサム種の発見である。そして研究の結果、その栽培に成功したのである。ここにイギリスのジレンマは解消された。1875年にはインド産の茶だけでイギリスの茶の需要をまかなえるほどだった。しかし、完全に中国茶を切り捨てる事はしなかった。これについては次の項で説明する。
 アッサム種の栽培は大規模になり、イギリスの植民地となっていたセイロン(スリランカ)にて伝染病によりコーヒー園が壊滅した後、1890年にはアッサム種の茶園が開かれ、セイロン茶事業を展開した。

 これらの新しい茶の大産地の出現は、イギリスを統治国として種まきから市場まで(生産から消費まで)全てをイギリスが掌握したのである。

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紅茶とアヘン(三角貿易)

 イギリスが完全に中国茶を切り捨てなかったのは、中国のお茶が当時、三角貿易の一部として大切だったからである。そしてまた、インドの植民地を維持するのに三角貿易は不可欠である、と東インド会社が考えていたからである。

 このアヘンの売り上げは、東インド会社の収入全体のうち12%を占めていた。後、アヘンに関してイギリスと中国の間で対立が生じ、アヘン戦争へと突入する。この戦争が両国に大きな影響を与えたのは言うまでもない。
 アヘン戦争が終わるころには、イギリス・オランダ両国の東インド会社は、インドがイギリスの直轄地となった事でその長い歴史に幕を下ろした(1858年)。

 20世紀の初めになって、イギリスはようやくアヘンの輸出をやめた。しかし、その理由は決して人道的なものから来たのが全てではなかった。インド・セイロンにおける茶事業が軌道に乗り、イギリス本国だけでなく、他の国々の茶需要にも十分応じる事ができるようになったからである。そこで、イギリスと中国茶は完全に関係を絶つ事となる。

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コレラと茶

 産業革命に伴い、急激な都市化が進んだイギリス。急激な人口増加とともに都市機能は麻痺していた。特に上・下水道の不備は深刻な水質汚染を引き起こした。不衛生な町には伝染病がつきもの、と昔から言われているように、人々がひしめき合って生活していく中、伝染病は恐ろしい勢いで広がっていった。特にコレラは水を媒介し、凄い勢いでイギリスを襲った。そのイギリスを救ったのが、なんと「茶」なのである。茶は水を沸騰させてから飲むので非常に衛生的であり、当時の人々を水によって媒介される伝染病から救ったのだった。

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元植民地の苦悩

 インドの茶園(エステート)では、半奴隷的農民による茶のモノカルチャー(単一栽培)が強制化されていた。そのため食料は生産できず、食糧不足が深刻化し、ちょっとした天候不順や不作が大飢饉を生むインド的現象が形成されてしまった。
 又、セイロンの茶園には多くのインド=タミール人が強制連行されて働かされていた。セイロンが独立した後には、その労働者たちはセイロンからもインドからも市民権を与えられないという事態が発生し、約100万人もの人々が無国籍状態になってしまった。

 現在スリランカは、国の70%を占めるシンハリ人と、タミール人が内戦状態にある。シンハリ人が仏教、タミール人がヒンズー教という宗教の違いによる交戦である。この原因は、過去のイギリスがとった政策に起因しているのだ。

 イギリス本国に莫大な利益をもたらした一方、植民地となった国ではその後も引き続きモノカルチャーかをもたらしたり、民族紛争を起こしてしまうなど、今でも深刻な影響を残している。

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Storm in Tea-cup 考察

 今回紅茶の歴史を調べていて興味深い言葉に出会った。「Storm in Tea-cup(紅茶の中の嵐)」という言葉である。その言葉の本来の意味は明確に述べられてはいなかったので、何を表した言葉なのかはよくわからなかったが、なにか納得できてしまう言葉であった。

 今回は東インド会社を中心に、更にイギリスを中心に茶の歴史を探った。大航海時代・スパイス戦争・植民地争奪・東洋貿易など、東インド会社の果たした役割は大きかった。むしろそれらの中心であったといえるかもしれない。まだ知られぬ土地へと出航するのはとても危険であった事だろう。にもかかわらず、人々は個人的に出航していったという。現地の王族や貴族と個人的に交渉し、自分の財産を手に入れるためだけにそのリスクに賭けていった商人たち。いつの時代も、人々の好奇心、欲望は大きな原動力となっていたらしい。現に個人貿易で成功した者は多く、彼らは国民的英雄や伝説的な金持ちとなって本国へ迎えられていた。
 彼ら――商人たちは、その目的のためには手段を選んでなどいられなかった。植民地政策然り。人々の好奇心、夢も彼らは金に換えられたのだろう。東洋に対するあこがれをうまく逆手にとって、彼らは「喫茶」という夢から多大なる利益をつくりだした。

 茶は近代経済システムの構築という流れの中で大きな役割を占めていた。イギリスは茶のために植民地を作ったし、貿易をしたし、戦争だってした。世界各国がそれぞれ影響しあいながら経済を作り上げていくという新しい関係の成立であった。
 優美なイメージの紅茶文化の裏には商業主義・帝国主義という世界規模の経済システムの流れがうごめいていたのだ。
 茶はまさに――良いにつけ、悪いにつけ――「世界を変えた植物」のひとつだったのだ。なんでもない植物であったはずの「茶」が、人間の貪欲なまでの欲望と、とてつもなく大きな権力と経済力で、嵐を生み出すオバケになっていた。人から見れば、茶の持つ魔力に魅いられたという所かもしれない。
 茶は茶だけではすまなかった。茶をたどれば、芋づる式に出てくる、砂糖・コーヒー・アヘン・スパイス・クリッパーという高速の帆船・コレラ・産業革命・労働者、そして戦争……etc. 茶のまわりは常に嵐であった。

 イギリスの「大英帝国への道」を紅茶なしでは語れない。
 王室から大衆までの「国民的飲み物」になった茶。それ程イギリス、あるいはヨーロッパで茶が影響力を持つ事になろうと誰が思っただろう? かくいうイギリス東インド会社だって、茶があのようなまでの利益をもたらすとは思っていなかったのだという。イギリスと茶の出会いが、たとえ万に一つの偶然であったとしても、そこから生まれたものはなんと大きなモノであったのだろう。
 イギリス紅茶の持つ美しさ、上品さ、優美さは皆があこがれ続けた物だ。しかしその裏には様々な人々の願い・祈り・苦しみ・憎しみ・欲望が絡みあっていた。

 カップの中の美しい紅褐色やその深い味わいの中には一体どれだけの歴史の重みがあるのか。
 そしてその歴史は終わってはいない。植民地ではなくなったのに、今でもそのしこりが消えていない国がたくさんある。過去の呪縛が解けていないのだ。

 一杯のteaに込められた想いをしっかりと受けとめなくてはならないだろう。人の欲望がモノにこんなにも多くの側面と計り知れない力を付けてしまうことの恐ろしさを知らなくてはならない。それがせめてもの敬意になるだろうと思うので。

6月22日 提出

2000年9月19日編集 By鏡月

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参考文献

『イギリス文化入門』 井野瀬久美恵 編 /昭和堂 1994年

『紅茶の国 紅茶の旅』 磯淵猛 /筑摩書房 1996年

『紅茶の文化史』 春山行夫 /平凡社 1991年

『世界食物百科』 マグロンヌ・トゥーサンーサマ (王村豊男 監訳) /原書房 1998年

『世界歴史16 近代3』 /岩波書店 1970年

『世界を変えた植物』 B.S.ドッジ(白幡節子 訳) /八坂書房 1994年

『スパイスストーリー』 B.S.ドッジ(白幡節子 訳) /八坂書房 1994年

『東西お茶交流考』 矢沢利彦 /東方書店 1989年

『日本茶 紅茶 中国茶』 南廣子 監修 /新星出版社 1999年

 

参考HP

『紅茶の歴史』

『紅茶の歴史』 ゴゴゴの紅茶

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おわり。